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大阪から岡山に移住して10年の管理人によるブログ。哲学対話、地域の文化・芸術に関することをアップしていきます。

【哲学カフェ】レポート「安心って、なに?」

9月18日(月・祝)14時〜16時、岡山大学まちなかキャンパス 城下ステーションにて、哲学カフェを開きました。テーマは「安心って、なに?」

今回初めて進行役をさせていただくにあたり、当初、私のこれまでの仕事や興味・関心から「教育」に関するテーマを考えていましたが、全く違うテーマを選びました。ここ最近、身の回りで、期せずして自分や相手が不安になってしまう/させてしまうような出来事が相次いだことから、ぜひ、「安心」について考えてみたいと思ったのです。

台風が過ぎ去った爽やかな青空のもと、女性7名、男性4名合計11名の方が参加してくださいました。

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対話の冒頭、「どんなときが“安心”と思えますか?」と伺ったところ、

「1日を無事に終えられたとき。失敗して怒られないのが安心。」

「世間で不安なことばかり起こるので、自分で安心と思えることは少ない。不安でない状態が安心。自分はなく外部によって安心かどうかが決まる。」

「普段は安心できる場所でも、一緒に過ごす人との関係性によって、安心できない場所にもなりうる。」

などの声が少しずつ出てくる中で、思考の絡み合いのきっかけとなったのが、車椅子で参加されていた女性の発言でした。

「私はこの通りできないことが多いけれど、何ができなくてどういうことをして欲しいかを理解し、助けてくれる人が側にいると安心。」

すると、ある一人の参加者の方から、岡山市が発行している「ヘルプカード」の紹介があり、それに対して参加者の方から様々な反応がありました。

「こういうカードを持っていないと助けてもらえない世の中って、ちょっと怖い。将来的には差別に繋がるのでは。」「カードを持っていないから助けてもらえない自己責任に問われることも起こり得る。」という懸念が出る中、

「いやいや、自分から助けて欲しいと言えない人にとってはこういうカードは有難い。周囲の人にとっても、この人は助けが必要なのだと判断でき、関わり方を変えられるので、安心に繋がるのでは」

と、ここから自助・互助論へ展開しました。

 

「自分の能力を高めて自分でできる範囲を保つことが安心だが、自分の能力の限界を超える部分はいつでも他の人の力を借りられると保証されていたら安心。必要な時にお願いできる人との関係性があるのが安心」という関係性についての意見も出る中で、ユニバーサル・デザイン(以下UD)が論点になりました。

「日本ではUDを推進しているけれど、そもそも欧米では、あえて不自由さを残し、人の手を借りることを前提にしている。日本では、自立することを目的にしているが、海外では助け合うことが当たり前なのでは。」

「UDとはいうけれど、実は誰にとってもUDというものはないのではないか。例えば、目の不自由な人が歩きやすい道が他の障害を持った人にとっても歩きやすいとは限らない。」といったインクルーシブ教育にも繋がる視点が展開されました。

さらに、「自分が体験していないから共感が足りない」という若い女性の発言がきっかけで、「体験」や「共感」は、助け合いに必要かどうかの議論に。

「何かをされるときに、いちいち共感されると重たく感じる」

「間違った共感のされ方もある。自分とは異なるのに相手の経験からそうと決めつけられると、傷ついてしまう」

「 “体験・共感・助ける“は、別々。同じ体験をしても共感できないこともあるし、共感しても、助ける行動を取らない場合もある」という行動論に発展します。

そして、「自分から助けを求めたり、手助けしましょうかと声をかけたりできないのは、SNSやwebサイトからの情報に頼って受け身になり、対人コミュニケーション力が低下したから」というテクノロジーの発達による弊害のご指摘があり、そこから、「電車やバスで席を譲りましょうかと提案したけれど、断られて気まずい思いをした。それ以降、声をかけづらくなった。」「手助けが必要かどうかはその人により、ケースバイケースなので、周囲にとっては判断が難しい。周りの人が不安になる。」という流れで、最初に話題になった「ヘルプカード」ってなに?という疑問に繋がります。

「ヘルプカードって、“お守り”みたいなものかも」

「お守りってなんだろう。なぜそれを持つことで安心するのだろう」

「持つことで、外部から自分を守れる?」

「それって安心じゃなくて、油断しているのかも」

などなど意見が出る中で、進行役の私は、モヤモヤし始めました。

そのモヤモヤを、実体験をもとにぶつけさせていただくと、私がとても気になっているのは「安心」そのものではなく、何度か話題にも出てきた「安心できる関係性」であることがわかりました。

そこで、「安心できる関係性」について残り20分で深めていくことになりました。

「相手にとってここまで踏み込んでも大丈夫だろうと思っても違うことがある。」

「同じ相手でも、時と場合によって許容範囲が異なるから難しい。」

「傷つかないためには自分をさらけ出さないでおくべきだが、親子や夫婦のように、自分をさらけ出すことによって始まるとされる関係もある。」

「安心できる関係性とは、何かしらの共通点があることが条件かもしれないが、逆に“互いに同じ“だと思っていると、本来違う点があるのにそれが理解できないこともある。同じだと思うことは、油断なのかも」

「相手によって適切な距離感を保つことで安心を得られるが、相手にとっては縁を切るということも関係性の一つの選択肢としてありうる。」

などなど、ラスト20分間でかくや、と驚く様々な視点が出てきました。

私にとっては、最後の、たとえ親子であっても縁を切るということが選択肢としてありうる、という意見が印象に残りました。自分にとっての安心を優先すると、相手を不安にさせたり傷つけてしまったりすることもあるかもしれませんが、その後の関係性に救いはあるのでしょうか。もう少し時間があれば、このあたりについても皆さんと深めたかったですが、今回は時間切れでお開きとなりました。

初めての進行役で課題もあり、参加者の方々にとって物足りないと思う点も多々あったかと思いますが、それでも、何か心に残った言葉や気づき、新たな問いを持ち帰っていただければとても嬉しいです。 

ご参加くださった皆様、本当にありがとうございました。

また岡山のどこかで、哲学カフェをご一緒できれば嬉しいです。